吉田豪さんがニッポン放送『プチ鹿島・長野美郷GoodJobニッポン』で、想定外のインタビュー経験というお題で、元横綱・格闘家の北尾光司さん伝説を話していました。 大相撲の元横綱双羽黒でプロレスのリングにも上がった北尾光司(きたお・こうじ)さんが慢性腎不全のため、2月10日に亡くなっていたことが. のではないでしょうか。, 北尾光司は6年間の闘病生活ののち、 POSITIONS IN JAPANESE PHOTOGRAPHY展」[グラーツ美術館/オーストリア], 2003.10 「take art collection 2003」[青山・スパイラル/スパイラルガーデン], 2003.11 「第41回 岡山市芸術祭公式プログラム「LOVE PLANET-愛の惑星-」展 」[旧出石小学校教室], 2004.01 「HARAJUKU COLLABO.APARTMENT 2004」[ラフォーレミュージアム], 2004.04 「夢みるタカラヅカ展[サントリーミュージアム天保山]/2004.07[東京オペラシティアートギャラリー], 2007.05 「TOKYO DESIGN PREMIO ~Tokyo Designer’s Week in MILANO」[SUPERSTUDIOPIU’](ミラノ)※建築家, 2007.10 「SPACE FOR YOUR FUTURE」[東京都現代美術館], 2008.02 「Japan! Culture + Hyper Culture」[The Kennedy Center](ワシントンD.C), 2008.03 「Faithful Documents-Japanese Contemporary Photography」[Aki Gallery](台湾), 2008.09 「ZOOM ON IN OUT JAPAN」[Associazione culturale Wave PhotoGallery](ブレーシャ、イタリア), 2009.07 「花・風景展:モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子」, 2010.03 「In aller Munde Suswaren in der Kunst」Museum Villa Rot(ドイツ), 2010.05 「Tokyo Visualist」National Art Gallery Malaysia(マレーシア), 2010.06 「Summer Loves」Huis Marseille, Museum for Photography(アムステルダム), 2010.07 「VERY FUN PARK 2010」TAIPEI101(台湾). 北尾 光司(きたお こうじ、1963年8月12日 - 2019年2月10日)は、三重県津市出身の元大相撲力士・元総合格闘家・元スポーツ冒険家・武道家、元プロレスラー。大相撲横綱時代(第60代横綱)の四股名は双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)。, 幼少期に父親の影響で柔道を始めたが、津市立敬和小学校に土俵が完成してからは毎日のように相撲を取って相撲が徐々に好きになり、地元の商店街で出場を勧められた相撲大会で優勝してからはさらに好きになった。次第に対戦相手に困るようになると、立浪部屋後援会会員の中にアマチュア相撲三段の腕を持ち、「津相撲クラブ」の責任者を務める人物から指導を受け、東橋内中学校へ入学して以降は立合いの当たりで対戦相手を土俵下まで吹っ飛ばすほどの実力を付けた。指導者の協力で、毎年の夏休みには立浪部屋へ泊まり込みで稽古し、6時に起きて周辺を5km走るのも絶対に欠かさなかった。中学入学後は同じ中学生に十分な相手がいなかったために三重高等学校へ出稽古に出かけたが、高校生を相手に全く負けず、3年生の夏休みに相撲教習所で行われた日本相撲協会指導普及部の進級試験兼各支部対抗試合でも優勝し、中学校には相撲部や土俵が無かったために無名だったが、角界でたちまち評判になった。両親はそのまま三重高等学校への進学を願ったが入門の意思は変わらず、「5年で関取になれなかったら帰る」との条件付きで、中学卒業と同時に立浪部屋に入門した。, 1979年3月場所に初土俵を踏む。この場所、中卒で初土俵を踏んだ昭和38年生まれ力士たちは「花のサンパチ組」と呼ばれ、北尾もその一人として数えられた。初土俵を踏んだ時点で195㎝の長身と当初から鳴り物入りで角界入りした北尾は、恵まれた体格と素質は誰もが認めるほどだった。また、相撲教習所では自他ともに認める「バスケットボール選手みたいな体」で注目を集め、中でも同期の保志(のちの横綱・北勝海)は特に驚いていたというが、北尾は「小柄な保志は保志で、すごく目立っていました」と後年述懐している。, 幕下時代には後援者と食事をした時に、自身の大好物であるステーキを3000g食べたかと思うと、直後に中華丼・天津丼・オムライス・炒飯・チャーシュー麺・冷やし中華・カツ丼を次々に注文しては殆ど完食するほどだった。リーチを生かした突っ張りから右を差して左おっつけから上手を引く相撲が北尾の型で、相手によっては頭をつけることも厭わず、寄り、上手投げ、掬い投げを得意とした 。ほぼ2mの長身でありながら腰高や脇甘は顕著でなく、機敏さもある程度持ち合わせていた。がっぷりに組めば、当時の第一人者であった横綱・千代の富士をも苦しめることがあり、外四つになって肩から覆いかぶさる相撲や喉輪でも力を発揮した。, しかし、父親が建設会社の取締役で北尾はその一人息子として甘やかされて育てられたためか、少しでも厳しい稽古をさせると「痛い、痛い」と根を上げる癖があった。さらに口癖のように「故郷へ帰らせてもらいます」と発言し、立浪も北尾に対してではなく稽古を付けた兄弟子を注意する始末だった。黒姫山はこれに関して「幕下までは技術面に関しては手取り足取り教えますけど、関取になってからは口を出すこともない。ましてや私生活の面は、稽古が終われば僕たち親方衆は自宅へ帰ってしまいますから分かりませんからね。そのうち気が付けば、師匠が北尾に対して、腫れ物を障るかのような接し方をするようになっていて、僕らからも何も言えなくなってしまった」と後年語っている。そして、椎間板ヘルニアで途中休場して入院した時は、立浪への不信感を抱いて本当に故郷へ帰ってしまった。これに怒った父親が北尾を追い返すと、立浪は罰として一年間の便所掃除を命じた。さらに鞭打ち症で途中休場して伊豆へ温泉治療に行った際には、伊豆で廃業を決意して友人の家に行ったが立浪にすぐ発見され、懇々と諭されて連れ戻された。酷い時は稽古をサボって喫茶店に行くこともあったが、立浪が注意しないために誰もが見て見ぬふりをしていた。だが、高砂部屋への出稽古通いや隠れ稽古に関しては絶対に欠かさなかったという。, 部屋を抜け出す騒動を度々起こしても持ち前の素質や出稽古などは欠かさなかった成果か、北尾は1984年1月場所で新十両、同年9月場所で新入幕を果たした。北尾の十両昇進によって1982年11月場所から続いていた立浪部屋の関取不在は解消された。前頭三枚目に昇進した翌11月場所には、初日に大関・北天佑を破る番狂わせを起こすと、三日目には憧れの横綱・北の湖と最初で最後の取組を演じ、これに勝利した。「対戦できたこと自体がもう嬉しくて…自分が目標としてきた力士と対戦できる喜び。とにかく負けてもいい」と後年に語っていた中での初金星であった。この場所はその取組が評価されて初の三賞となる殊勲賞を獲得、1985年1月場所は新小結に昇進し、2場所連続で10勝、同年5月場所は新関脇となったが、中日の保志戦で左足を怪我したため途中休場(その後13日目から再出場)で6勝(6敗3休)に終わり、平幕に陥落した。 しかし、翌7月場所は東前頭筆頭の地位で、千代の富士と隆の里の両横綱を共に下して2個の金星を獲得した他、対戦した全横綱・大関を相次いで破る活躍で12勝を挙げ、優勝次点で殊勲・技能の三賞も獲得した。中でも、この場所5日目の千代の富士戦は、立ち合い諸手突きで千代の富士得意の左前ミツを許さず、そのまま一気に押し出した。同年9月場所関脇に復帰して11勝、次の11月場所も関脇で12勝の優勝次点と、幕内上位及び三役の地位で3場所連続二桁勝利を達成、この3場所合計でも35勝の好成績を挙げた事を高く評価され、1986年1月場所で新大関となった。, ところが、大関時代の同年5月場所には、同場所で大関獲りだった小錦との取組で鯖折りによって小錦の右膝を負傷させた。小錦にとってはこの故障が引退まで祟り充分な力が出せなくなったうえ、双羽黒が後述のトラブルが原因で廃業したことで横綱昇進の基準が厳しくなったこともあり、双羽黒が「横綱・小錦」を阻んだと見られることがある。但し小錦自身は双羽黒を憎んではおらず「あのケガがあったから大関になれた」と語っており、また「自分は体重が重くて足が小さいから」と遅かれ早かれ怪我をすると割り切っていた。, 同年7月場所の千秋楽から2日後に横綱審議委員会が両国国技館で開かれ、北尾の横綱昇進が討議された。同年5月場所は12勝3敗の優勝次点(千秋楽結びの一番で千代の富士貢との相星決戦に敗れる)、今場所は14勝1敗の優勝同点(千秋楽結びの一番で千代の富士に勝利して並ぶも、優勝決定戦で敗れる)と2場所続けて千秋楽まで優勝争いに絡む活躍を見せたことで、昇進を決定する動きが見られた。当時の委員長だった高橋義孝も「(北尾は)稀に見る逸材で将来性の多さが買える」と高評価を与えた。北尾のウィークポイントである優勝経験の無さについても、「心・技・体の心と技に若さからか劣る面もあるが、素質は十分。横綱としてやっていけると思う」と述べ、理事だった大鵬親方も「スケールの大きい素晴らしい素質。まだ若いし、大成できるかはこれからの努力次第。稽古で鍛えればダイヤモンドになれる」と期待を寄せた。しかし、当時の委員の一人だった稲葉修だけは「(幕内)優勝経験が一度も無い力士が(横綱に)なるのはおかしい」「身体は文句無しだが精神面に甘さがある」「北尾は『心・技・体』のうち『心』がダメだ」と述べた。稲葉は昇進に最後まで反対したものの、結局は多数決によって北尾の横綱昇進が決定した 。当時、22歳11ヶ月での横綱昇進は昭和以降では4位のスピード記録であり、新入幕から12場所での昇進も昭和以降で6位であった。幕内最高優勝が一度も無いまま横綱に昇進したことから、「(千代の富士の一人横綱状態を解消するための)仮免横綱」と呼ばれるなど、実力が正当に評価されないことが多くなった 。, 北尾は横綱昇進を機に、春日野理事長から「立浪一門から生んだ双葉山の『双』と、立浪部屋の定番でもある羽黒山の『羽黒』を合わせて四股名を付ければ良いではないか。そうすれば史上最高力士が誕生するかもしれん」と説得され、最終的には「双羽黒」への改名を受け入れた。双羽黒と同様に横綱昇進と同時に改名した玉の海、二代目・若乃花の推挙式の際には推挙状はそれぞれ大関時代の「玉乃島」「若三杉」名義だったが、双羽黒の際には「双羽黒」名義で発行された。なお、ノンフィクションライターの小室明も後年、優勝経験が無い北尾を横綱に昇進させたことを問題視し、また「未来の大横綱を期待する春日野理事長の気持ちは分かるが、『双羽黒』という四股名はあまりにも不自然に作られたもので、候補にあった「緑嶌」などに留めるべきだった」と指摘。さらに日本相撲協会の幹部達や横綱審議委員会らの責任についても言及している。, 横綱昇進伝達式では「心・技・体の充実に心懸け、横綱の名に恥じぬよう一層稽古に精進致します」と口上を述べ、横綱土俵入りの型は立浪・伊勢ヶ濱連合(2014年現在では伊勢ヶ濱一門)伝統の「不知火型」を選択した(指導は、53代横綱・琴櫻の佐渡ヶ嶽)。なお、日本相撲協会は1986年5月に吉田司家と絶縁していたことで、明治神宮での横綱推挙式は協会単独で行われ、11月場所前に行われていた司家での奉納土俵入りも廃止された。こうして、「第60代横綱・双羽黒光司」が誕生したが、双羽黒の土俵入りはせり上がり後に1ヶ所余計な構えが含まれており、その姿から「交通整理」と揶揄され、東西どちらの土俵入りでも足は必ず正面側から出すべき所を何度か向正面側から出したことがあり、これで横綱としての評価を落とす最初の要因になってしまった。さらに横綱昇進直後は食中毒と虫垂炎で入院したことで、今度は体調管理が問題視された。一部マスコミからは「イタイイタイ病」と評されていた。なお横綱土俵入りの際の太刀持ち・露払いは、当時の立浪部屋に双羽黒のほかに幕内力士がいなかったため、同門で幕内に定着していた旭富士・板井が務めることが多かった。, 新横綱で迎えた9月場所は3勝3敗で頸椎捻挫のため途中休場、11月場所は8連勝して中日での勝ち越しを決めたが9日目に土が付き、千代の富士と共に12勝2敗で千秋楽を迎えたことで17場所ぶりの横綱相星対決となったが、あっさり敗れて優勝を逃した。続く1987年1月場所は前場所と同じ中日で勝ち越したものの、9日目に初顔合わせの益荒雄に初金星を与え、10日目にも小錦に敗れて連敗となり、千代の富士と同じ2敗となった。13日目に大乃国に敗れて3敗となり、千秋楽は2敗の千代の富士戦が組まれたが、本割では千代の富士を上手投げで破って優勝決定戦に持ち込んだものの決定戦で敗れ、またも優勝を逃した。, 3月場所は9日目を終わって7勝2敗となり、この時点で1敗だった北勝海を追っていたが、10日目から左膝の痛みを理由に突然休場を発表、多くの批判が浴びせられた。5月場所は10勝5敗と2桁に乗せたが、7月、9月と1桁に終わり、9月場所後の巡業中に付け人が集団脱走する騒ぎが起きた(詳細は後述)。11月場所は初日から13連勝と勝ち続け優勝も期待されたが、14日目に北勝海に、千秋楽は千代の富士にそれぞれ敗れ、優勝を逃した(千代の富士は全勝で22回目の優勝)。翌年こそ双羽黒が初優勝を果たすと思われたが、同年暮れに起きた突然の廃業により(後述)、優勝の夢は断たれた。, 横綱昇進後も、結果的に合計3場所(1986年11月・1987年1月・同年11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの、その3回全てで最後は千代の富士に敗れて幕内最高優勝は果たせなかった。また、肝臓疾患と靭帯損傷が影響したためか、当時の横綱陣の中で双羽黒の成績が最優秀だったことが一度も無かったため、番付では必ず西の正横綱か東西の張出横綱に甘んじることになり、その後の騒動によって廃業したことで、東の正横綱の座に双羽黒の名前が載ることは出来なかった。結果的に最後の出場となった1987年11月場所の場所前優勝予想では5分の4の親方衆が双羽黒の名前を挙げたものの、その予想は見事に外れてしまった。, 1987年12月27日、立浪との若い衆に関する意見の対立から部屋を脱走、そのまま「(破門同然の)廃業」という事態になった 。発端は、同日の夜に部屋の若い衆が「『あんなちゃんこが食えるか』と横綱(双羽黒)が言っている」と立浪に言いつけたことだった。立浪の主張によれば、ちゃんこの味付けについて立浪と大喧嘩した北尾は、仲裁に入った女将を突き飛ばし、「二度と戻らない」と言って部屋を出て行ったという。一方、北尾自らの著書では「(ちゃんこが)美味い・不味いの問題ではなく、若い衆が料理を作れないほどたるんでいることで、日頃から(立浪)親方に再三指導するよう求めてきた。その日もその事を言ったらいつもの様に全く取り合ってもらえず、果てには逆に若い衆に謝罪するよう求められた。それが納得できず、部屋脱走を試みるも女将が止めに入ったため、それを振り切る形で部屋を後にした。すると親方がそれを見て『(女将に)暴力を振るった』と新聞記者を煽って大騒ぎになった」と主張している。, 後年、北尾の死去の際に主要な一般紙の多くはちゃんこの味付けを巡って衝突したという立浪の主張について触れておらず、その説を支持も否定もしていない。ただ、日本経済新聞、朝日新聞などは女将を突き飛ばしたという主張を肯定している。, 部屋を出て行った双羽黒は都内のマンションの一室に籠城していたが、武隈が居場所を見つけて部屋に戻るように説得するも失敗、その間に立浪が協会へ双羽黒の廃業届を提出した。この事態を受け、同年12月31日に緊急理事会が開かれ、双羽黒の廃業届を受理することを正式決定した。, 同日、双羽黒は緊急記者会見を開き、「私はもう(相撲界に)未練は無い。相撲は好きだが、幕下の時から相撲道の違いで(師匠・立浪には)とても付いて行けない(と思っていた)。『横綱』の名を汚したことは公私共に良くないが、人間として自分を貫いた」と述べて、正式に大相撲の廃業を発表した。会見ではまた今後のことを問われ、「実業家にもなりたいが、タレントとしてもやっていく。取材ならギャラを払ってほしい」と話したことで、マスコミからの大バッシングにも見舞われた。また、ニューヨーク・タイムズに「日本人にとって怒りを爆発させることは無作法であり、無礼者は面目を潰される」と評論されたほど、世界を騒がせたニュースとなった。, 既に発表されていた1988年1月場所の番付には、双羽黒の名が東張出横綱に残っていたが、横綱在位数は僅か8場所(番付上では9場所)と、琴櫻・三重ノ海と並ぶ最短記録2位タイの短命横綱に終わった。ケガや体力の衰えで引退したのではなく師匠と喧嘩した挙句の廃業とあって世間の見方は非常に厳しく、双羽黒への同情論はほとんど聞かれなかったものの、野坂昭如など僅かに双羽黒を支持する者もいた。1988年3月には東京都内のホテルで断髪式が行われたが、同年3月場所の直前だったため関係者や後援会からは一人も出席せず、最後の止め挟を入れたのは父親だった。この廃業が事実上の「破門」であることは、立浪と双羽黒の双方が認めている。, この事件をきっかけに、北尾の横綱昇進という判断が結果的に甘過ぎたという反省から『大関の地位で2場所連続優勝』という横綱昇進内規(横綱審議委員会内規第2項)が、厳格に適用されるようになり、その後四半世紀にわたって「2場所連続優勝に準ずる成績」(横綱審議委員会内規第3項)で昇進に至る例は一切無かった。特に、小錦と魁皇の二人は、1987年以前に昇進した横綱と同等の成績を挙げていたにも関わらず、昇進できなかった。また、旭富士・貴乃花・白鵬のように、後に横綱昇進を果たしてはいるが、それ以前に「2場所連続優勝に準ずる成績」を挙げながら「2場所連続優勝」の内規を満たしていないとの理由で見送られたケースも多かった。しかし、2014年5月場所では鶴竜が、大関で2場所連続優勝せずに(2場所前:14勝1敗で優勝同点、直前場所:14勝1敗で優勝)第71代横綱に昇進。さらに2017年1月場所では稀勢の里も同じく2場所連続優勝せずに(2場所前:12勝3敗で準優勝、直前場所:14勝1敗で優勝)第72代横綱に昇進しており、平成末期に至り緩和されるようになった。, 大相撲廃業後には二輪免許を取得。プロレス入りまでの間は、ボクシング・アメリカンフットボールなどのオファーを断って「スポーツ冒険家」という肩書きでタレント活動を行った。テレビや週刊誌の取材にもよく応じ、「相撲は(自分の)ビジネスの一つ。未練は全くない」とのことだった。さらには週刊プレイボーイ・ビッグコミックスピリッツ(新感覚人生相談 綱に訊け!)で人生相談のコーナーを担当し、「大相撲を辞めたからプロレスに行くだろうとか思っているかもしれないが、そんな安易な考えはない」と語っていた。, とはいえ、世間は「北尾の進むべき道はプロレスしかない」という見方が根強かった。そんな中、スポーツ冒険家の仕事でアメリカ合衆国のプロレスラー養成所の一つである「モンスター・ファクトリー」を訪れたところ、同行していた東京スポーツの取材に対し「(もしプロレスを)やるなら外人と同じように1シリーズごとに契約という形だね」と初めてプロレス転向に色気を示す発言をした。その場では進展こそなかったが、この発言によって急速にプロレスへ傾倒していく。, 大相撲での電撃廃業から約2年後の1990年2月10日、東京ドーム大会でのプロレスデビューが新日本プロレスから決定、発表された。北尾曰く「アメリカで数ヶ月間みっちり修行を重ねた」という触れ込みで帰国し、その際にルー・テーズの指導も受けており、北尾は「僕の(プロレスの)師匠(と呼べるの)はルーお父さん」と語っている。リングネームは、自身が考案した「サンダーストーム北尾」を希望していたが、実際には使用されずに本名でデビューする運びとなった。ただしこれは具体的に検討されていたらしく、オリジナル技の名称や入場曲(曲の途中「Break down Thunder Storm…」というコーラスが入る部分がある)に名残がみられる。, 北尾のデビュー戦の相手は、巨体ながら優れた運動神経を持ち、全身にタトゥーを刻んだインパクトのある外見で人気を博していたクラッシャー・バンバン・ビガロが選ばれた。「プロレスラー・北尾光司」の初披露はデーモン小暮閣下に作曲を依頼した入場テーマ曲「超闘王のテーマ」が流れ、次々とスモークが吹き上がりスポットライトが多く照らす中、派手なコスチュームに身を包んだ北尾が現れるという、新人としては異例といえるほど非常に豪華なものだった。この際に着用していた、リベットなどで装飾を施した独特のデザインの革製ジャケットは、北尾が漫画「北斗の拳」の大ファンだったことを受けて制作した特注品だという。, リングに上がった北尾は黄色いタンクトップを引き裂くパフォーマンスを見せ、しきりに声を上げては決めポーズを取るアメリカンプロレスを意識したプロレスを展開、デビュー戦を勝利で終えた。この試合でのフィニッシュ技はギロチン・ドロップで、試合運びやパフォーマンスは世界的人気レスラーであるハルク・ホーガンを意識したものだった。それでいて自信満々の態度で入場して相手を挑発し、勝利して意気揚々と引き上げる態度と言動によってプロレスファンの失笑を買い、なかには「帰れ」コールまで起きた。北尾の数年前に全日本プロレスでデビューした輪島大士にも同様の特別待遇が見られたが、輪島は当時30代後半と体力的な衰えがみられており、北尾のように勘違いした行動も一切見せなかったため、大相撲ファンからも同情されて温かい目で見守られたが、北尾は20代半ばと若く、下積みの努力をすれば本格的なレスラーとしても通用すると認識されていただけに、相撲廃業時と同様に厳しい目に晒される結果となった。, それ以降も対戦相手に恵まれて勝利を収めるものの、デビュー戦から改善が見られない単調な試合運びはプロレスファンの間で冷評され続け、「(北尾は)しょっぱい」という声が上がり始める。やがて、北尾の試合では観客から激しいブーイングや強烈な野次が浴びせられ、対戦相手の二級外人レスラーに応援コールが沸き起こる始末だった。さらに北尾が、その厳しい評価に対して不満を露わにしたことも、ますますファンの反感を煽る結果という悪循環に陥った。当時、シングルとして発売された「超闘王のテーマ」のキャンペーンで中日スポーツの取材に応じた北尾は「自分の試合が早く終わるので、客はそれに不満に思ってブーイングが起きる」という持論を展開している。この北尾の言動はファンのみならず、対戦レスラーの間でも「技を受けない」「セルを取らない」などの不満の声が上がり、露骨に北尾を軽蔑した態度を取るなど、リング上でも不穏な空気が流れるようになる。また、北尾は受け身の技術に難があったため、特定の技をかけられることを極度に嫌い、これが技を受けない姿勢に拍車をかけた。そしてある試合中、ブレーンバスターをかけられた際に恐怖心から無理な体勢で着地して腰を強打、負傷する。このアクシデントの後、北尾は「今日は腰が痛い」「体調が良くない」など理由をつけては練習をサボるようになり、また地方巡業に帯同しながらも決まっていた試合を当日になって突然欠場を申し入れたりするなど、大相撲時代と同様の「練習嫌いの問題児」の悪名を響かせ始めた。, その後、新日本の現場責任者とマッチメイカーを務めていた長州力と激しく対立すると、北尾のあまりに怠慢な態度に業を煮やした長州が発した「プロレスラーは常に多少なりとも故障を抱えて試合に臨んでいる。フロントがどう言おうと、練習しない奴は試合で使わない」という言葉に対し、北尾は「何か文句があるなら勝負(喧嘩)して、負けたら言うことを聞く」「怖いのか?この朝鮮人野郎!」という度を過ぎた暴言、さらには民族差別発言によって新日本プロレスから契約解除を言い渡された。, など数々の内部事情が明らかにされた。それらの情報を公表した新日本は「トラブルなどによる解雇ではなく、本人の十分な同意を得た円満退社」という旨のコメントを出している。長州は後にインタビュー記事で、「どの団体が獲得しても、北尾は必ず同じトラブルを起こすぞ」という旨の発言をしており、それはさほど時を要さず現実のものとなってしまった。, 新日本プロレスから専属フリー契約を解除された北尾は、大相撲の先輩である天龍源一郎を頼って創立間もないSWSへ参戦する。しかし、移籍から日を置かず同じく元大相撲力士であるジョン・テンタ(ジ・アースクエイク、元幕下・琴天山)との第2戦目のシングル試合中、トラブルを起こす。, この試合では北尾は試合当初から不満げな表情を浮かべ、プロレスの試合を組み立てようとするテンタに対しロックアップすらせず、目潰しのポーズをとって威嚇する俗にいう「シュート」を仕掛けた。この目に余る態度にテンタは激高、逆に北尾をレスリングの技術で投げ飛ばし優勢に立つ。その後、攻めあぐねた北尾は実際に目潰し(未遂)を行い(サミングではなく人差し指と中指を突き出した非常に危険な行為。テンタが避けたため未遂に終わる)試合は完全に進行不能となる。そのまま両者ともに臨戦ポーズをとりながらにらみ合いの硬直状態が続くが、注意へ近づいたレフェリーに北尾がローキックを浴びせ直後に反則負けが宣告された。, 北尾は反則負けを宣せられた挙句、リングを降りて手にしたマイクでテンタに向かって「八百長野郎この野郎!

.

ダイヤモンドシライシ ネックレス プレゼント 4, 蜘蛛 産卵 時期 38, みぎわさん 声優 変わった 19, Teams 予定表 ほかの人 24, 映画 ひとよ ネタバレ 感想 4, 桜 記号 Android 22, オープニング 神 アニメ 6, 日曜天国 タイムフリー 理由 11, 駅名 英訳 夜ふかし 12, 男 ぽっちゃり 体重 7, 最強のふたり パラグライダー 曲 5, フクロウ カラス いじめ 17, 大人 の土ドラ 視聴率 13, ハイキュー ねこま 夜 久 4, 結婚 できない 男 Ng 5, 剣盾 捨て 台詞 7, 目の前に 日 向坂 歌詞 5, ウイイレ2020 カンテ ポジション 10, 秋葉原 ダイビル 喫煙所 7, ラプラス 捕獲 コツ 26, ぬら孫 リクオ 成り代わり 30, ワールドウォーz 攻略 大群モード 5, 化粧品 サンプル 偽物 22, さらば青春の光 森田 似てる 俳優 9, 前田裕二 早稲田 学費 39, 春茶 グッズ パーカー 31, 昌平高校サッカー部 セレクション 2020 15, おたる水族館 ペンギンショー 夜ふかし 25, オリエンタルラジオ 喧嘩 ナイナイ 44, Ark ロックドレイク コマンド 10, Bbc 野球 カード 5, プロスピ キャラバン クイズ 答え 12, 座りながら 腹筋 オフィス 37, 夏目友人帳 アニメ 1期 14, 瞳の 先 に 口コミ 10, Iphone Xr 壁紙 シンプル 17, 小学校 担任 嫌い 11, ブラ する 男 58, ライカールト 背番号 歴代 18, スバル Cm 数字 4, ニーアオートマタ 強化パーツ大 出ない 40, 第五人格 ディスコ やり方 5, ジョジョ タルカス 身長 13, 杉本 審判 なんj 8, 箱根 高級旅館 子連れ 4, Sixtones Snowman 年齢順 7, 埼玉 条例 違反 7, 結婚 ソイングク 妻 26, アークナイツ スタートダッシュ 20連 34, Party Parrot グラブル 4, 宇 善 トラウマ 小説 5, クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード Dvdラベル 11, マリオットの 瓶 ベルヌーイ 37, かぞくいろ Railways わたしたちの出発 Dvdラベル 4, 慢性蕁麻疹 漢方 ツムラ 4, 冴羽獠 かっこいい 画像 5, 歓送 迎 会苦手 5,